ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

乳首と文学

推しのどエロい小説をずっと書いていた。ほんとうにずっと書いていた。ずっとずっとずーっと書いていた。イカれている。

私はいつも推しが受になるタイプだ。最近話した同人友だちは「推しキャラは攻になることが多いかな?ちょっと夢が入っているから」と言っていて、私は「ゴリゴリに夢が入っていようと、私の場合、推しはいつも受だわ……なんなら最初攻から入っても受を書いたり見たりしてしまう……」とちがいを感じたものだ。

性癖やエロはみんな誰しも自分が正解なので、字数と時間を割き、自分なりの根拠を並べて主張しようが、相容れない人間には単なるこじつけや自己投影といわれてしまう。

それは重々承知のうえで、にしたって推しはド受けだ。

毎日毎日育児の合間にエロ小説をコツコツ書き進めては「これはやりすぎかもしれない。いくらなんでも推しはこんなに淫乱ではなかったかもしれない。ちょっといきすぎだ」と思い直して、動画や昔の発言を振り返るともうバリバリのド受で困る。

そんなにド受でなくてもいいのにってくらいド受だ。いや嘘だ。いいのにとは思わない。困ってもいない。こんなにド受でエロいオーラがむんむんで感謝している。

エロ小説を執筆している以外の時間は家事をして育児をして、5万さんにラインで妄想を垂れ流し、あとはピクトブランドが使いにくいとキレていた。ピクトブランドの使いにくさといったらほんとうに尋常じゃない。いろいろ検討して現状使うしかないから使っているが、いまだに全貌をよく把握していない。ログインしても秘匿性が高すぎて、視界に広がる世界はまだら模様なのだ。

商品の置いてないがらんどうの棚に、商品情報の書かれた札だけが置いてある、どこまでも続くひとの気配のない大型デパートの棚。ピクトブランドってそんなかんじだ。

三次元の推しのエロ小説を書くのはおそらくこれがはじめてなのだが、ナマモノ界隈が面倒なことは置いといて、私は対象が二次元より三次元のほうが書きやすいのかもしれない。対象が架空のキャラクターだと、あまりしつこく描写するのもな、と遠慮してしまうが、おなじ人間だと思うと描写の手を緩めずにのびのびできるみたいだ。

というのも、5万さんに小説を読んでもらったところ「推しの乳首の描写がよかった!」と言ってもらえて読み返したら、一言でいうなら「妄執」というかんじの出来栄えで、たしかにあの描写は並々ならぬ書き込みだった。非実在青少年にあそこまでできない。

でもそういえばこの記事を書いていて思い出したが、昔好きなバンドメンバーのエロ漫画を描くとき「実在する人間だから、身体とかちゃんと描かないと説得力がないよな」と律儀にいろいろ画像検索して、無駄に男性器のアップのコマとか入れていたので、私はそういうところ融通のきかない人間なのかもしれない。漫画は結局完成しなかった。昔の私はいま以上に根気がなかった。

いまの私はちがう。スマホでエロ小説を何千字も書く有様だ。

独身でこどももおらず、果てしない時間があったころ、既婚者で子持ちの同人友だちが「小説はスキマ時間にスマホで書いてるよ」と言っているのを聞いて「えー!書きにくくない?私パソコンじゃないとむり〜!」って言ったことに、いまさら自分ですこし傷ついている。あのひとに謝りたい。

こどもが生まれてみてわかったが、パソコンを開く心の余裕がない。パソコンを開くだけならできるかもしれないが、使い終わったあとにこどもの触らないところにしまわないとならないことを思うと、ならスマホでいい。あとタイピングの音はけっこううるさい。こどもとおなじ部屋でパチパチしたらドキドキするくらいには響く。

でもスマホで長文を打っていると「これが消えたらどうしよう」という恐怖に駆られる。6000字〜8000字くらいでそのピークが来て、だから途中でアップしてしまう。データがあまりにも儚いことに変わりはなくとも、とりあえずアップすれば落ち着くのだ。

だからピクトブランドのひとたちには「このひとちんこも入れてないのに無駄に長い小説を小分けにしてあげて……。乳首の描写なんていいからとっとと挿入するか、挿入してからあげろよ」と思われているかもしれない。そもそもひとがいたら、の話だが。

いろいろピクトブランドのことを言ったが、私はべつに「ナマモノもっとオープンでいいじゃん!」とかいう危険思想はこれっぽっちも持ってない。推しにだれかのちんこを入れてアンアン言わせて「こいつえっろいなあ〜」ってニタニタする趣味なんて、隠れてやるべきに決まっている。でもそれとこれとは別にピクトブランドは使いにくい。それは絶対的な事実だ。

ナマモノに限らず、二次創作の立ち位置もここ何年かでだいぶメジャーにキャッチーになったが「恥ずべきもの」だというのは念頭に置いて忘れてはいけない。そういう「やっちゃいけないことをやっている」というのも魅力のひとつではないかとも思うし。

と、大きな主語で一般論っぽく語ってみたが、これは最近私が自分によく言い聞かせている、というか思い知っていることだ。二次創作は隠れるべき趣味で、その二次創作界隈のなかでも、私はかなり恥ずべき立場の人間だと。

昔はキャラクターが変わっても支障がないような、量産型のキャッキャウフフの二次創作作品を見て「内容薄っ。私はもっとおもしろいのを書きたい!」と思っていたが、最近そういう量産型タイプのほうがよほど健全だと考えを改めた。これは夢作品についても同様だ。

所詮はオナニーにすぎない二次創作で、他人のふんどしで相撲を取って、火のないところに煙を立てるに飽き足らず、あれこれ能書きならべたり、こねくりまわして小難しいことを述べて自己表現(笑)や文学(笑)しようとしているやつ(私のことだ)のほうが量産型よりずっと恥ずかしい存在だ。

キャラクターとキャラクターの気持ちが通じ合ったり、寄り添ったり、触れ合ったり、心と心が接触したときが二次創作や夢作品のクライマックスだとしたら、それはもう量産型がいちばん手っ取り早く効率良く「萌え〜!」とできるわけで、だてに量産型化・王道化していない。

私だって、もっと明るい人間なら二次創作はともかく夢小説くらい「智のこと、せかいでいちばん大好き♡♡♡」とかそういう内容のないうっすい小説を書いて健全にきゃーきゃー言ったり顔を赤らめたりしてみたかった。だが、こっちも他人のふんどしで文学(笑)や自己表現(笑)をするために捧げた年月がでかすぎて、こじらせたりこねくりまわしたり小難しい能書きを垂れないとオナニーできなくなってしまったのだ。そしてやっかいなことにへんなプライドもある。だからほんとうに手に負えない、恥ずかしいと思っている。ほんとうにほんとうに自分は恥ずべき人間だ消えたほうがいいと思いながら、私は今日も「私、智のことだあい好きだよ♡」とか言う小説は書けず、妄執に捕らわれて推しの乳首の描写に文字数を割いている。推しよ、今日もド受けでありがとう。