ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

愛は忘却に宿る

住んでいるアパートの外装工事が始まった。これが予想以上に気が滅入って困っている。建物をまるごとシートに覆われた状態なのだが、家のなかにいると昼でも薄暗く、なんだか酸素も薄いように感じられ、夜には頭が痛くなる。たまらず深呼吸をしたくて外に出ることもあるくらいだ。洗濯物も干せないし、じわじわと神経をすり減らされている。推しの痴態でも書かないとやってられない毎日だ。(これは言い訳である。)

友だちの5万さんがついにブログを始めた。めでたい。

https://tengoku-match.hatenablog.com/

日々ラインでいろいろなことを話していても、ブログを読むのはやっぱり楽しいものだ。

5万さんは死後はなにがなんでも天国に行きたいらしいので、おもしろいブログを書いて、ぜひとも天国に行ってもらいたい。

私たち二人の間ではもっぱらトレンドの天国なのだが、ちなみに私はまったく行きたいと思っていない。私の勝手な見立てであるが、たぶん天国には砂糖もカフェインもアルコールもないし、おもしろい人間は大体地獄にいると思う。だから天国にはまったく惹かれない。

天国に行きたくない、というよりかは現世で天国に行けるような生きかたをしたくない。あるいは天国に行くことにしばられて生きたくない、と言ったほうが正しいかもしれない。好きなように生きて行けるのならまあ普通に行くだろうが。

ただこれが不思議なもので、天国に行きたいと思っている5万さんより、天国に行くつもりのない私のほうがよほど天国に行けるか行けないかのジャッジが厳しい。私の感覚としては、普通に生きてれば天国に行くのはまあまず無理だろうと思っているのだが、5万さんは多少の戒律なら破っても心意気さえめでたければ行けると信じている。

ちなみに天国に行ってなにがやりたいのか聞いたところ「特にない」とのことだった。行くこと自体がゴールなのだという。がんばれ。私も地獄でやりたいことは特にこれといってないが、まあたぶん推し活はすることだろう。あの鬼いいじゃんとか言っているんだろう。

先日、私の二人しかいない友だちのもうひとりである、ハイド崇拝者に、このブログを教えた。バレたとかではなく、普通に教えた。「子どもといるとどんどん言葉が出てこなくなるよね」という話がラインで出たので「私はまた性懲りもなくブログを始めました。社会で生きる大人と渡り合えるかはともかく、自分の内面を表す言葉はブログをやっていると出るよ」という流れだった。かなり無理矢理だったかもしれないが、ブログを書くこと自体はほんとうにおすすめしたい。対こども、対夫ではない自分を獲得できますよ、友人。

つまるところ、私はどこかで彼女にブログを読んでほしくてうずうずしていたのだろう。

高校生のころからの付き合いである彼女と「ママ友」的な会話をするのは楽しいし、味わい深いものがあるが、それしかできなくなるのはやはりさびしいものだ。このブログが私たちに「やまもなくおちもない、とりとめのない話題」を提供してくれれば、と思っている。

私のいきなりのカミングアウトに、彼女は「私が読むのをやめられないように(彼女は読書家だ)あなたは書くことをやめられないんだね。どうして教えてくれなかったの。読みます」と言ってくれたので、ラインにURLを貼ったわけだった。

教えたその日か翌日には、彼女からブログの感想が来た。察しがいいなあと感心したのはそのなかに

「あなたの間男の正体は見ないでおくわ」

とあったことだった。

彼女は私の推しを見たところで自分にはなにも響かないし、どうやら特筆するほどの容姿でないらしい、ということをブログを読んで理解したらしい。さすがだ。

推しはたしかにとてつもなく見た目がいいというわけではない。清潔感はあるが、ハイドと比べればただの人間の男に過ぎない。これはハイドが神だから仕方のないことだ。けれど賢く、非常に味わい深い人間だし、私は彼の容姿もいまとなっては好きだ。なぜか?推しだからだ。

かっこいいともかわいいとも思うし、性的にも見える。スタイルもそれなりでは?もうこうなりゃなんでも良いのだ。

このごろ彼を動画で観ていて思うのは「サイズの合う服を着てほしい」ということだ。推しはいつも体型に合ってない、おおきめのズボンを履いている。もっときちんとサイズの合った服を着れば、見違えるのになあ、とおせっかいなことを考えている。

推しは自分で言っていたが、似顔絵の似ない男らしい。すごく薄い顔に分類されるのかもしれない。実際昨日私も描いてみたのだが、まったく似ない。私は推しを描いていたのに、できあがったのは推しに似ても似つかない柳楽優弥だった。ちなみに柳楽優弥は好きだ。推しには似てないが。

恐ろしいことに、描いている途中は「なかなかうまくいっている」と思っていたのだ。なのにできあがったら柳楽優弥だった。信じられないことがあるものだ。

きっと私の推しの分析もそんなものなのだろう。このブログを読むひとは、そこのところをゆめゆめ忘れないでほしい。ものごとはすべて、逐一丁寧に描写したことがすなわち、正しく捉えたことにはならない。むしろ本質を見失うことのほうが多いかもしれない。このブログは、私の推しの情報を得るところではなく、私の推し活の混迷を味わうところである。

だが似顔絵を描くのはおもしろかった。推しの顔の各パーツをよく見て、思いを馳せる機会となった。似顔絵とは己の身のうちにある推しへの愛情を感じるのにうってつけの行為である。

推しの顔にはあまり男らしい印象はないが、実はなにげに眉毛が太いことが、似顔絵を描いてみて改めてわかった。無茶苦茶意思が強いのが滲み出ているのかなあ、なんて思うと微笑ましい。

あと推しは女装がめちゃくちゃうまい。ハイドの女装は神々しいが、推しの女装は「いそう!いるいる!こんなひと!」というリアリティがすごい。

きっと印象が薄いから「いそうなひと」に擬態するのがうまいのだと思う。

思えば私が昔いれあげた関西弁を操るテニス部の中学生も顔に印象のないやつだった。丸眼鏡と髪型と関西弁でかろうじてキャラを保っているような男だった。私は「簡単に像を結べない顔(ひと)」に心がざわつくようだ。

ひとに愛されるひとというのは、どこか一部だけ忘れられてしまうひとだと昔から思っているのだが、たぶん私は黄金比より少しだけたくさん忘れられてしまう人間が好きだ。

ぜんぶ忘れられたら記憶に残らない。ぜんぶ覚えられたら印象に残らない。少しだけ忘れられるひとが、忘れた部分を他者がそれぞれ好きなように補完し、各自で愛する。そして記憶に残り、印象にも残る。そうすれば誰にも忘れられない。でも誰も正しくは覚えていない。

忘れられる部分の理想がたとえば2割としたら、私はたぶん3割か4割くらい忘れられてしまうひとが好きだ。簡単に像を結べず難解ではらはらさせられ、一度考えると頭から離れない。なにより好きに埋められる部分がでかいのがいい。

なるほど、昨日はその余白を、白い紙の上で好きなように埋めたら柳楽優弥になってしまったわけだな。

ハイドを崇拝する友人はリア充なので、どうやら「推し」という概念がないようだ。うすうすそんな気はしていた。さきほども引用したが、彼女は私の推しを「あなたの間男」と呼ぶ。いい。これはいい。まったく悪い気がしないぞ。彼女にもきっと天国に行ってほしいものだ。彼女がそれを望むのなら、だが。

かくして、このブログは私の二人しかいない友人のどちらも知るところとなったというわけだった。(おしまい)