ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

耳で覗き見できない性分

ラジオを聴く習慣がなくて困っている。

誰かと誰かが取り留めのないことを話しているのを収録した音声を、じっくりと座って聴く習慣が、私にはない。

ラジオって、なにかをしながら、やりながら聴くひともいるだろうが、聴いている間なにをしたらいいのかもわからない。

もっと言うと「ラジオを聴く時間」ってなに?って感じだ。それは一日のうちのいつ?聴いている間はなにをするのが有益?ラジオを聴くときのスタンスは?

要するに、慣れてないのだ。ラジオを聴くことに。

いちばん困るのは視覚が手ブラになることだ。ラジオを聴いている間、視覚はどうしたらいいのだ?

この辺、やっぱりYouTubeはいい。視覚も埋めてくれる。

ラジオって長いのも困る。一時間も視覚ブラブラでひととひとが取り留めのないことを話しているのを聴いている?YouTubeならせいぜい30分だ。視覚も満たしてくれるから、満足度は高い。

なにかをやりながら聴けるというが、ラジオを聴くのが主役なうえで、なにかをやるわけだから、そしたらやることなんてたかが知れている。おそらく脳みそがマルチタスクでない私は、聴いている間の時間をうまく使いこなせない。

たとえば、これが「一時間誰かと電話する」なら私はぜんぜん耐えられる。それどころかうれしい。それは私も会話に参加する、能動的な時間だからだ。一日のなかで時間を捻出する努力を惜しまないだろう。

ラジオって、聴覚しか満たしてくれないわりにめちゃくちゃ労力がかかるし、そのわりに受動的なところが苦手なのかもしれない。

インターネットの海に沈んだ推しの過去は、動画、写真、テキスト情報とともに、音声情報も大量にある。これらはいつ聴けなくなるかわからず、文字には残らぬ貴重な情報源だ。聴けば得れるものがたくさんあるはずで、私はもっと貪るように聴き漁っていいくらいなのだ。

なのにまったく手が出せずにいる。スペースもそうだ。スペースがTwitterなのもあるが、でもそんなこと言ったら動画配信も必死にしがみついてまで聴こう観ようとはならない。あれもまたいきなりはじまるしな。

もしも私がいま高校生だったら、もっと血眼になって、すべてを取りこぼすまいとしていただろうし、それこそを推しへの愛だと思っていたが、いまはそんな元気も強迫観念もない。

推しのことは愛している。それは真実だが、べつにそれをだれかに「ここまで捧げた!」と騒いで証明する必要もいまの私はかんじないし、そんな時間も体力もない。私はべつに推しの学者になりたいんじゃない。推しのエロ小説を書きたいのだ。あと言うだけタダだから言うと、かけがえのない存在にもなりたい。なれるのなら。

要するに、空いた時間でちょちょっとやりたいのだ。

私にとって、もう趣味は片道切符の「帰ってこなくていい」ものではなくなった。どんなに楽しくても、必ず往復切符を買い「帰ってこなくてはいけない」ものになった。だからそんなに深くはのめりこめない。差し出せるものは以前よりぐっと少なくなったことはたしかだ。

若いころの趣味は片道切符だから、人生を左右する。私は若いころ好きになったものを片道切符を買って楽しみ、乗り継ぎ乗り継ぎしてここまで来た気がする。買う切符がちがえば、またちがった人生もあったろう。

もうそういう旅のような楽しみかたは、できなくなった。

けれど、現実に基盤があるからこその愛も、またある気がする。私が推しへ寄せた愛は波状になって、やがて夫や子、家族へと帰っていくだろう。それはそれで素敵なことだと思うし、その循環を崩してはならないとどこかで思ってもいる。

私が推しを愛するのは生活を豊かにするためであって、生活をないがしろにするほどのめりこんではならないと。

いまの私がラジオを聴くのなら、まず間違いなくこどもが寝静まった夜中だろうが、限られた静かで自由な時間に、聴覚だけしか満たしてくれないわりにほかの感覚は雁字搦めで活かせない、事実上つぶされる、自由に身動きをとれないラジオを聞くのはもったいない気がどうしてもしてしまう。それなら私は推しをあんあん言わせる妄想の世界へ旅立ちたい。いまは時間があれば小説を書きたい。

たぶん想像力がないんだろう。想像力があれば、ラジオを聞いていろいろ妄想をして、もっと楽しかったのかもしれない。

大好きな推しの声とトークなので、聞き出せば楽しいのだが、もっと世界に入りたいと思ってしまう。聴覚だけでは妄想する足がかりがたりないんだと思う。

あとめちゃくちゃ大音量で聴きたい。ラジオを聴くのが苦手であるがゆえに、聴覚だけでどっぷり推しを堪能するにはある程度の音量がほしいのだ。

約一時間大音量で誰かと推しが話しているのを、なにもしないで聴く時間は、残念ながらいまの私にはないということになってしまう。

YouTubeもほんとうは大音量で観たいところだが、視覚が満たせるのでまだそこそこの音声でも耐えられるのだ。

おなじ聴くだけの娯楽でも、音楽を聴くのは耐えられる。むしろ楽しい。能動的な作業だからだ。曲を聴いている間いろんなことを考えている。

けれど、もう新しい曲を聴く力は残ってないかもしれない。いやそんなことないか。最近Maroon5の新曲聴いたし。Maroon5ってやっぱりいいって思ったな、浮遊感あって。

ほんとうに、夜中の一時間、推しから電話がかかってくればいいのにな。そしたらなにを置いても絶対に私はスマホを離さない。もしもスマホが不良品で、話している途中にいきなり火が出ても、爆発しても、私は絶対に離さない。

無意味な時間や行為にこそ推し活の真髄が宿るというのに、ふと気づくと合理的になってしまっている自分がいる。

無駄だ無意味だと切り捨てれば、最後にはなにもなくなってしまうから、そんな自分がすこしさびしい気もしたが、よく考えなくとも、推しのエロ小説ほど無意味なものもないと、私は胸を撫でおろした。

今日もブレずに推し活最高〜。