ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

AV女優たちとの思い出

はじめに言っておくけど、これべつにぜんぜんエロい記事じゃないんだ。

最近、推し活が高じて知り合ったひとが、ちょっと話したらたまたま私とおなじ自閉症児のママで、そこから親しくなった。

推しのことはもちろん、自閉症児子育てあるあるや苦労や将来の不安なんかを話すうちに、かなり込み入った話題もするようになって「大変なんだね」なんてお互い励まし合っていたんだけど。

最近、私のもとに家族にまつわる降って湧いたゴタゴタがあって、それを近況をかねて彼女に話したら、それまでの態度を一変させて、端的に言うと「聞きたくない」と言われてしまった。

とてもびっくりした。

「そういうことはひとのひきだしを開けてしまうこともあるから言うべきではない」「会話を楽しみたいのにそういう話をされると困る」「どういうリアクションを求めているのかわからない」

とまあコテンパンだった。

というのも、それまで彼女のほうは私にいろんなことを話してくれていて、だから「ああ、こういう仲良くなりかたなのかも」と思っていたのもあって、もうあっけにとられてしまった。

え?ダブスタじゃない?と思わなかったと言ったら嘘になる。けど、それってどうしてもどうしても彼女に話したいことでもないし、聞きたくないって言っているひとに無理に話すことでも、聞いて欲しいことでもないし、人付き合いの大原則として「ひとの嫌がることはしてはいけない」ので、まあそれはしょうがないよな、と彼女にはきちんと謝罪した。

翌日になって、彼女から長い長いラインが来て自分のいまの状態的に受け止められなかったと謝罪があったけど、相手の状態に関係なく、やはり「ひとの嫌がることをしてはいけない」ので、そこはあんまり関係ないなと思いながら、改めてまた文章でも謝った。

話したときのテンションは、結構その降って湧いたゴタゴタに振り回されて落ち込んでいたので、ショックを受けなかったと言ったらそれもまた嘘になるけど、べつに彼女が親身に聞いてくれようがそうじゃなかろうが、私がゴタゴタを回避するにあたっての負担とか、出自の残念さって変動しないから、あんまり引きずらないようにした。息を止めて感情を止めて、淡々とこなしていこうと思う。

ただ気になったのは。

彼女が私に話してくれたのは旦那さんとの関係や恋愛の話で、私が話したのは家族というか自分の家系?のことだったんだよね。

私、このふたつって同じカテゴリだと思っていたけど、ひょっとして彼女にとってはちがったのかな、ということ。

彼女にとっては旦那さんの話題より、家族の話題がタブーだったのかな、というのが気になった一点。

ちなみに私は自分のもともとの家族を捨てたといっていい人間で、それもあってか

「家族は捨てたしうちの家族は揃いも揃って全員カス」

って話題と

「結婚してこどももいるけど、旦那のことはもう好きじゃないかもしれない」

だと、後者のほうがタブー感強めだなあ、と思う派。だって、いまも一緒に暮らしてんだよ?そんな悲しいことないじゃん?

かといって、べつにそういう風に思うひとを否定したり責めたりもしない。気の毒だなあって心が沈んじゃうのはどちらかというとこっちというだけだ。

でもこれって、過去か現在進行形かのちがいかもしれない。私はもう終わったことだと思っているけど、大抵のひとにとって、家族は現在進行形の課題だったり問題でもあるわけだから。

そう思えば、まあ感覚的なことだから『わかった!』とはならないけど、まあしょうがないかなと思う。

もう一点気になったことは、彼女にオブラートに包んでいろいろな方向から指摘されたんだけど、どうやら私「ひととの距離感がおかしい」っぽい。

いやこれまでの人間関係からなんとなくそんな気はしていたんだけど、やっぱりだれかに指摘されると、そうか〜っていろいろ考えざるを得なくなってくるよな、と。

私はとても人見知りな人間なんだけど「人見知りなんです」と自分で言って、まあまず「そうなんだね」とは返ってこないタイプ。

初対面のひとでもこんにちはって挨拶するし、にこにこするし、簡単な会話くらいならできる。ちょろいひと相手になら、優しいって思ってもらえるくらいの態度は取れる。

でも私のことをこどものころから知るひとなら(そんな人間ももうほとんどいないが)、私がすごく人見知りというのは理解してもらえるはず。むかしの私はひとまえで全くしゃべれなかったから。

なぜ、めちゃくちゃ人見知りで初対面のひとはおろかクラスメイトすらろくにしゃべれなかった人間が、おとなになったいま社交的になったのか。

とくになにか大きな変化があったわけではない。

今回考えてみたけど、家族と良い関係を築けなかった私にはおそらく社交のグラデーションというか、段階、あるいは線引き、みたいなのがないんだと思う。

スイッチをオンオフするみたいに社交と人見知りを切り替えているだけ。

人見知りは防御で、社交は攻撃で。根本的な他人へのスタンスはなんら変わってない。

あとは見栄っ張り。こどものころなら人見知りで、で済むけど、大人になってそれじゃあだめだろって思うからやっている。ただそれだけ。

自分に社交の層みたいなのがないので、他人の人見知りの層みたいなのが見えないか、見えても「ここを突破しないと仲良くなれないなら早く壊そう」としか思わない。時間をかけるって考えがない。そもそも全ての人間関係は基本的にいつかは終わりを迎えると思っているので、早く仲良くなったほうが旨みが多いと思っている。結果を求めるし、そのための努力は惜しまない。そしてある程度の時間をかけて結果が出なかったら、つぎの結果が出そうなものに行きたいんだよね。

人間関係における結果とはなんなのか。書いていてわからなくなったけど、こういう嘘の人懐っこさで世の中を渡り歩いたらどうなるのかというと、あっという間にめちゃくちゃに親しくなって、あっという間に人間関係が終わります。

今回のことはたぶんそこら辺が良くなかったのかな、なんて分析する。

だから私に「ひとにヘビーな家族の話するのだめだろ。自分が話されたら困るだろ」って言ってもまったくピンと来ない。びっくりするしショックも受けるけど、私は普通に話を親身に聞けると思う。距離感がおかしいので。

で、ここからやっとタイトルなんだけど、むかしむかしにエロ本を作ってたことがあって。それはいわゆる編集者がハメ撮りするタイプのやつで、私は女性編集者兼撮影アシスタントみたいなことやっていた。

私、あれすごい楽しかったし、なにより女優さんのことが好きだったんだよね。だれがどうとかじゃなくて、女優さんという人種に会って、話すのがすごく楽しかったし、いま思えばラクだった。

やっぱりひとを魅了するお仕事だから、私も見事に惑わされたひとりであるというのはもちろん、今回考えたんだけど。

大人数の前で裸になって、初対面のひととセックスをしてっていう、あえてこういう言いかたをしちゃうけど

『ひととの距離感がバグッているひと(あえてバグらせたひと)』

『そのバグッた距離感を良しとする世界』

がとても居心地良かったんだろうな、と今回腑に落ちた。

そしてエロ本を経て、いま私は訪問販売?みたいな仕事をしているんだけど。

『ひととの距離感がバグッているひと(あえてバグらせたひと)』→知らない家のピンポンを押せるひと

『そのバグッた距離感を良しとする世界』→知らない家のピンポンを押して初対面のひととしゃべると褒められる。

見事にこれなんだよなあ。

 

 

おわり