ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

宛先のない手紙

今日も推しのすこし筋ばった首が美しかった。
華奢な身体からまっすぐにょきっと生えて、賢い推しの頭を支えていた。あの首のまっすぐさに、推しのキビキビした気質が滲み出ていると思う(挨拶)

私の推しは、毎日noteで日記を書いている。
月額300円、1記事100円、過去の記事は一ヶ月分が400円。
覚えてしまった。買っていないのに。
そういえば、私は推しにお金を落としたことがないと以前書いたが、記事を更新してからラインスタンプを買っていたのを思い出した。だからまったくのゼロではなかった。よく使っているのに忘れていた。
でもnoteは買っていない。推しの会社ではなく、推し個人に、手頃な額でお金を落とせるまたとないチャンスだというのに購読していない。
単純に私が新しいものを警戒するタイプだからだろうが、どうもnoteにあまりいいイメージを持てずにいる。推しにお金を落とすのはともかく、一度noteを通すことになんとなく抵抗があるのだ。
無料公開されている記事は読んでみたが、ひとまず推しのnoteには触れないでおくことにした。
幸いなことに、インターネット人である推しを無料で楽しめるコンテンツはネットの海に溢れるほどあった。
私は宝の山を漁るように、まずは推しの会社が運営するサイト内で検索を繰り返し、推しの書いた記事を読み進めた。
なかにはおもしろくない記事もあったが、私にとって推しが書いた、推しが登場するということが重要なのでべつに気にしなかった。
推しという対象を作るというのはそういうことだと思う。推しの関わるコンテンツを正当に評価することをやめ、推しを愛でるその一点で消費する。「推し」という言葉には、少なからずそういうニュアンスがある。つまり、ある種特定の誰かを「推し」にすることは、その誰かを侮辱するかもしれない一面を持っている。だって、表現者は誰しも盲目に愛されたいのではなく、正当な目で良い評価をされ、その上で愛されたいだろうから。
そういうわけで、もはや推しのコンテンツへ正当な評価のできる立場にない私は、彼の書いた記事のなにがおもしろいのだろうかと首を傾げつつも、
「推しにもこんな時代があったのか……」
とひとり胸を熱くするのだった。盲目的な愛はとてつもなく恐ろしいものだ。
フォローすると、インターネットの流行り廃れは凄まじいので、10年くらい前にはおもしろかったかもしれないものが2021年に読んでみると「?」となるのは仕方ない部分もあるとは思う。
あらかたサイト内の記事を読み尽くし、推しのうつり変わりもわかったところで、今度は推しの名前をグーグル検索にかけてみた。まだ知らないコンテンツを求めて。
いとも簡単に推しの昔のブログが出てきた。昔も昔、推しがいまの会社に入るまえの、インターネット人になりたい、またはなりかけくらいのころのブログだ。
ダメ元で液晶をタッチしたら、リンクが生きていて、そして簡素でどこか懐かしいブログのレイアウトが現れた。喜びを通り越してちょっと驚いた。
10年以上前に書いた推しのブログがいまも読めるなんて。インターネットの海の深さに驚きながら、私はまた読みふけった。
noteの無料公開記事を見たとき思ったが、推しの文章はのらりくらりとしているところがある。他愛もないことに文字を割いて、本音というか血の通った言葉はなかなか見せない。ふむふむとつかえることなく読み進めることはできるのだが、読み終わってみると、なにを食べたか記憶がないのにお腹いっぱいになっている、というような変な感覚になった。狐につままれたような気持ちというか。
私はなにか読み物をしたが、なにも得たものがなくて、脳みそがものを読んだあとの状態になっていない、というような。
きっとなかなか本音を見せない、ひょうひょうとしたひとなんだろう。そう思った。
同じ人間が書いたのだから当たり前だが、昔のブログも同じような調子で、しかしいかにも男子大学生が考えるくだらないことがとうとうと書かれてあった。私がそれを微笑ましく受け入れるのは、彼が推しだから。ただそれだけだ。これが知らない男子大学生のブログなら、私は一文字たりとも読みはしない。ブログを何ページもさかのぼるのも、おもしろくてたまらないからではない。推しに割く無為な時間が愛おしいからだ。
そして何ページも読んでいるうちに、私は気づいた。そう、何ページもさかのぼれることに。
推しは何本も何本も、レベルの低い下ネタ、くだらない思いつき、ちっとも親身になっていない大喜利のような悩み相談。そんな内容のない文章をおもしろおかしく、口語体でテンポよく書き続けていた。
推しはnoteの無料公開記事のなかで、しきりと毎日日記を書き続けることを自分で自分に課したわりには、億劫だなんだと言っていたが、あれはきっとポーズだろうなと思った。
(このひと、書かずにはいられなかったのだ)
私がブログをやるのは、ラッキープラネットが初めてではない。
人生で何度かブログをやってきた。ブログというものは楽しいけれど、なかなかめんどくさい。そして続かないひとはほんとうに続かない。10年〜15年くらいまえはちょうどブログが流行っていて、Twitterができるまでは誰しも気軽に作ったものだが、作ったりそれっきりというひとも多くいた。リンクを押して覗いてみると、2つ3つ記事があるだけで長らく更新が途絶えている、そういうブログを見るのは珍しいことじゃなかった。
男子大学生のころの推しのブログは、その内容こそくだらないが、ひとつの記事が一応読み物になった形で、いくつもいくつも更新され続けている。
ああ、きっとこのひとは書かずにいられなかったんだ。
胸を打たれながら、自分は本格的にイカれてると思った。
でもいいのだ。彼は私の推しだから。
推しのことを知らなければ、このブログはただの自分のことをおもしろいと思っている男子大学生がくだらないことを書きなぐっているだけの内容で、そこになにかを見出したりするのはシンプルに狂気だ。
けれど、私もブログで文章を発信するのにハマったことがある、というか現在進行系でその沼から抜け出せないでいるからこそ、そう思わずにはいられなかった。
書くことが楽しくて。書いて。いつしか反応をもらう喜びに目覚めて。書いて。自信がついて。書いて。きっとひそかに功名心もあって。書いて。なにやってるんだって冷静になったときも、きっとあって。書いて。書いて。書いて。書いて。
私はかつての自分を振り返るように、男子大学生の推しの、ガラケーを握りしめ丸めた背中を思った。
言うまでもなく、本当のことはなにもわからない。推しは自分の気持ちをブログにはっきりと書いていないし、たとえ書いてあったとして、それを事実と決めつけることは私にはできない。

ただ私の目の前には。
10年以上前に大学生だった推しが、ガラケーで打ったであろうブログの記事が、いまもまだ延々と続いている。
盲目になった私には、それが時空を越えて届いた、宛名のない手紙のように思えるのだ。
noteに手を出すのは、この手紙を読み切ってからでも遅くはない。



(購読しようと思ってタッチしたけど、登録してね〜みたいな画面で萎えた)