ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

この上ない喜びと幸せを感じております

ずっと書いていた推しのどエロい小説をやっと仕上げることができた。上中下と3編に分かれた、トータル25,000字の大ボリュームだ。人間て、スマホでこんなに書けるものなんですね……としみじみしてしまう。

こんなに長いものをオンラインで書いたのは初めてかもしれない。いや、同人誌を作ったときだって、ここまで長いのはなかったのではないだろうか。

いつも、話を一本書くのに大体8,000字ほど使うのだが、そこが集中力の限界らしく、10,000文字ともなると、確認で読み返すだけでも大変になってくる。

どエロい内容だと、文章のほとんどが動作の描写になるので、頭のなかで人形を動かし、手足の動きはおかしくないか、そもそも手はきちんと二本か、三本になってたりしやしないかなど確かめる。結構めんどくさい。

数年前に「もう大人だし、ガッツリエロい小説書くか!」となってから、自分なりに試行錯誤して、どんどん御託や恥じらいなど、なんの役にも立たないものを削ぎ落とし、ヌケる文章を追求してきたつもりだが、技術を磨いて突き抜ければ突き抜けるほど、ひとに気軽に読んでもらえるものではなくなるこの皮肉。なぜだ。

いやなぜだってエロで、しかも今回は実在する人物を題材にしているしで、ハードルの天井が見えないほど高いからなのだが。

でもときどき本当にわからなくなるので困る。以前に書いたものよりはるかに成長したのに、どんどん気軽に読ませにくくなっている!もっと読んでもらいたい!と身勝手な駄々をこねたくなる。そんなことを言っても、結局そういうもんだから仕方ないのだが。

露出狂のやることに、がんばってペローンと出せば拍手喝采されるだとか、技術を磨けばおかわり!と言ってもらえるだとか、そんなバカなことはないように、何万文字書こうが、どれほどうまく書こうが、あれは私のオナニーでしかない。もっと言うと、すべての娯楽はどんなにがんばろうが、努力を評価されることなく無慈悲に消費されるし、努力が評価されるようになったら終わりだ。

大の立派な大人がバカなことを一生懸命、真剣にやってあえて笑い者になっているのに対して、私はうっかり胸を打たれてしまうことがある。だが、実はそれがいちばんむごいやり方で、本来「うわーーこいつばかだなーー!」と笑い飛ばしてあっさり忘れるのが正しいのだ。

でも推しがバカなことをやると、もしくはやっていたのを見ると、そういういちばん間違ったやり方で消化してしまう。笑いを取ろうとしたひとに対して「がんばっているよね」と言うのはあまりにも残酷なことはよくよくわかっているのだが、こればっかりは無理だ。

推し活をするものにとって、推しの一挙手一投足はすべて示唆と啓示なのだ。深読上等。深読みして深読みして裏の表は表の裏で真実はどこにもなくて、正解のない日々に身悶えて、今日も推しは生きている。推し活はひとことで言うなら「混迷」である。

私の小説の話に戻す。前前ジャンル(ぜんぜんぜんぜんせみたいだ)まではハイドを崇拝する友だちにも作品を読んでもらっていた。ときどき感想をもらったりして、リア充で聡明な彼女ならではのハッとする考察に、私自身刺激を受けていたものだった。腐女子は結構みんな腐女子あるあるで物語を書いているな、と彼女と話して気づいたことはいくつもあって、実りある時間だった。だが彼女は腐女子ではないので、ジャンル替えとエロ解禁にともない、その習慣はなくなった。

エロを書くまえはなにを書いていたのかというと、なかなか叙情的なものを書いていた。そのころはそれがかっこいいと思っていたのだが、いまはそれがひたすらひたすら恥ずかしい。ごちゃごちゃ言う暇あるなら推しにちんこの一本でも入れろ!と思ってしまう。昔の私よ。おとなはいつも時間に追われていて、余裕がなくさびしい生き物だ。だから時間ができたらスマホで小説を書くし、すぐ推しにちんこを入れてしまう。淫語を喘がせてしまう。

もしも、あの25,000字のエロ小説を彼女が読んだらなんというのか聞いてみたいものだ。だが、たぶんほとんどがハートマークだらけの内容にドン引きするか呆れるか辟易するか私を見損なうかのどれかか、もしくはいまあげたもの全部なだけだと思う。

そういえば、その小説を書いている途中に、ピクトブランドのなかでコメントをもらった。コメントをもらったこと自体がとてもうれしかったし、その内容もきちんと小説を読んでくれていると感じて胸が温かくなったが、まず真っ先に思い浮かんだのが「ピクトブランドほんとにひといたんだ」だった。あんまりにも人間の気配がしないので、私と5万さん以外全員サクラだと思っていた。ちゃんと人間がいたらしくてよかった。ちゃんと人間がいたとして、私の小説が受けいられるのかはわからないが。

そしていま5万さんが出てきたが、私が最初に小説を書き始めたジャンルから、いまに至るまで途切れつつもずっと読んでくれている、たったひとりのひとだ。これはほんとうにすごいことだ。ジャンルの切れ目は縁の切れ目、という言葉があるなか、私たちはかなりいい関係を築いたと思う。私たちのジャンルが被ったのは最初のひとつだけ、というのもまたすごい。

これはまた改めて書きたいが、5万さんがある俳優にハマらなかったら、私も推しと出会うことはなかっただろう。遭遇することはあっても。

推し活において、出会いと遭遇はちがう。一般的な人間関係が相互交流に対して、推し活は一方通行だ。ただの遭遇に、こちらが想像力と感受性を働かせ、どれほど意味を持たせることができるのか。推しとの出会いはそれにかかっている。

実際、私は推しにハマるまえ、推しに遭遇したことは何度もあった。でもあのころはまだ彼に出会えていなかった。5万さんが推しに出会い、私が彼に出会い、そして25,000字のエロ小説が産声をあげたのである。笑える。

オナニーというのは重々承知のうえで、やっぱり私は、小説を誰かに読んでほしいと思っている。好意的に受け止められたいし、感想にも、いつだって飢えている。5万さんから感想をもらうと蒸発しそうなほどうれしいし、そこで初めて「書いてよかった」と思う。自分の読みたい物語を、書きたいように書いて、できあがったとき、今度はそれが客観的に成立しているのかも気になる。そしてそれは自分には絶対に確認できない。

感想をもらうためだけに書くようになったらよくないと思うが、やっぱり感想はとてもうれしいものだ。

誰にも見せないものをコツコツ書く、とかそういうことは私には絶対にできない。

なにかを書くことはものすごく孤独な作業なのに、使っているのが情報伝達ツールである「文字」というのは、すごく書いている側の人間の本性を示しているみたいで好きだなと思う。

タイトルは、いま話題のビッグカップルの入籍報告から。「この上ない幸せ」ってすごくいいなと思ったので、5万さんと一緒にラインで一文を真似をしてみた。

「○○(推しの名前)さんと夫婦になり、この上ない喜びと幸せを感じております」

ちょっと幸せになれます。ほんとうです。