ラッキープラネット

推しがいるこの星はラッキープラネット

耳で覗き見できない性分

ラジオを聴く習慣がなくて困っている。

誰かと誰かが取り留めのないことを話しているのを収録した音声を、じっくりと座って聴く習慣が、私にはない。

ラジオって、なにかをしながら、やりながら聴くひともいるだろうが、聴いている間なにをしたらいいのかもわからない。

もっと言うと「ラジオを聴く時間」ってなに?って感じだ。それは一日のうちのいつ?聴いている間はなにをするのが有益?ラジオを聴くときのスタンスは?

要するに、慣れてないのだ。ラジオを聴くことに。

いちばん困るのは視覚が手ブラになることだ。ラジオを聴いている間、視覚はどうしたらいいのだ?

この辺、やっぱりYouTubeはいい。視覚も埋めてくれる。

ラジオって長いのも困る。一時間も視覚ブラブラでひととひとが取り留めのないことを話しているのを聴いている?YouTubeならせいぜい30分だ。視覚も満たしてくれるから、満足度は高い。

なにかをやりながら聴けるというが、ラジオを聴くのが主役なうえで、なにかをやるわけだから、そしたらやることなんてたかが知れている。おそらく脳みそがマルチタスクでない私は、聴いている間の時間をうまく使いこなせない。

たとえば、これが「一時間誰かと電話する」なら私はぜんぜん耐えられる。それどころかうれしい。それは私も会話に参加する、能動的な時間だからだ。一日のなかで時間を捻出する努力を惜しまないだろう。

ラジオって、聴覚しか満たしてくれないわりにめちゃくちゃ労力がかかるし、そのわりに受動的なところが苦手なのかもしれない。

インターネットの海に沈んだ推しの過去は、動画、写真、テキスト情報とともに、音声情報も大量にある。これらはいつ聴けなくなるかわからず、文字には残らぬ貴重な情報源だ。聴けば得れるものがたくさんあるはずで、私はもっと貪るように聴き漁っていいくらいなのだ。

なのにまったく手が出せずにいる。スペースもそうだ。スペースがTwitterなのもあるが、でもそんなこと言ったら動画配信も必死にしがみついてまで聴こう観ようとはならない。あれもまたいきなりはじまるしな。

もしも私がいま高校生だったら、もっと血眼になって、すべてを取りこぼすまいとしていただろうし、それこそを推しへの愛だと思っていたが、いまはそんな元気も強迫観念もない。

推しのことは愛している。それは真実だが、べつにそれをだれかに「ここまで捧げた!」と騒いで証明する必要もいまの私はかんじないし、そんな時間も体力もない。私はべつに推しの学者になりたいんじゃない。推しのエロ小説を書きたいのだ。あと言うだけタダだから言うと、かけがえのない存在にもなりたい。なれるのなら。

要するに、空いた時間でちょちょっとやりたいのだ。

私にとって、もう趣味は片道切符の「帰ってこなくていい」ものではなくなった。どんなに楽しくても、必ず往復切符を買い「帰ってこなくてはいけない」ものになった。だからそんなに深くはのめりこめない。差し出せるものは以前よりぐっと少なくなったことはたしかだ。

若いころの趣味は片道切符だから、人生を左右する。私は若いころ好きになったものを片道切符を買って楽しみ、乗り継ぎ乗り継ぎしてここまで来た気がする。買う切符がちがえば、またちがった人生もあったろう。

もうそういう旅のような楽しみかたは、できなくなった。

けれど、現実に基盤があるからこその愛も、またある気がする。私が推しへ寄せた愛は波状になって、やがて夫や子、家族へと帰っていくだろう。それはそれで素敵なことだと思うし、その循環を崩してはならないとどこかで思ってもいる。

私が推しを愛するのは生活を豊かにするためであって、生活をないがしろにするほどのめりこんではならないと。

いまの私がラジオを聴くのなら、まず間違いなくこどもが寝静まった夜中だろうが、限られた静かで自由な時間に、聴覚だけしか満たしてくれないわりにほかの感覚は雁字搦めで活かせない、事実上つぶされる、自由に身動きをとれないラジオを聞くのはもったいない気がどうしてもしてしまう。それなら私は推しをあんあん言わせる妄想の世界へ旅立ちたい。いまは時間があれば小説を書きたい。

たぶん想像力がないんだろう。想像力があれば、ラジオを聞いていろいろ妄想をして、もっと楽しかったのかもしれない。

大好きな推しの声とトークなので、聞き出せば楽しいのだが、もっと世界に入りたいと思ってしまう。聴覚だけでは妄想する足がかりがたりないんだと思う。

あとめちゃくちゃ大音量で聴きたい。ラジオを聴くのが苦手であるがゆえに、聴覚だけでどっぷり推しを堪能するにはある程度の音量がほしいのだ。

約一時間大音量で誰かと推しが話しているのを、なにもしないで聴く時間は、残念ながらいまの私にはないということになってしまう。

YouTubeもほんとうは大音量で観たいところだが、視覚が満たせるのでまだそこそこの音声でも耐えられるのだ。

おなじ聴くだけの娯楽でも、音楽を聴くのは耐えられる。むしろ楽しい。能動的な作業だからだ。曲を聴いている間いろんなことを考えている。

けれど、もう新しい曲を聴く力は残ってないかもしれない。いやそんなことないか。最近Maroon5の新曲聴いたし。Maroon5ってやっぱりいいって思ったな、浮遊感あって。

ほんとうに、夜中の一時間、推しから電話がかかってくればいいのにな。そしたらなにを置いても絶対に私はスマホを離さない。もしもスマホが不良品で、話している途中にいきなり火が出ても、爆発しても、私は絶対に離さない。

無意味な時間や行為にこそ推し活の真髄が宿るというのに、ふと気づくと合理的になってしまっている自分がいる。

無駄だ無意味だと切り捨てれば、最後にはなにもなくなってしまうから、そんな自分がすこしさびしい気もしたが、よく考えなくとも、推しのエロ小説ほど無意味なものもないと、私は胸を撫でおろした。

今日もブレずに推し活最高〜。

不良の素養

ビー・バップ・ハイスクールを観た。

NETFLIXを解約しようかという話が家庭で出ている。

というか私がしたんだが、子育てに忙殺されてこのごろほとんど利用していないし、毎月支払うお金がもったいないので、6月いっぱいで一旦止めようか、ということになった。いまの私は推しの YouTube さえテレビで観れればいいという価値観に振り切っているので、いいタイミングかと思ったのだ。

それでビー・バップ・ハイスクールをなんで観たかというと。

私「じゃあ今月はNETFLIX強化月間だね。なんか観たいのある?」→夫「あ〜ビー・バップ・ハイスクール懐かしい……中学生のとき観たなあ」→私「若いころの仲村トオル観たい」

というわけだった。

このビー・バップ・ハイスクール、いくつも映画が作られてるんだが、私が観たのはボンタン狩りするやつだ。ボンタン狩りがこの字で合っているのかもわからないのだが、ボンタンというのは、改造した学ランのズボンのことらしい。

で、感想。

『こどもの喧嘩で映画一本やるのすげえ』

だった。

男子高校生の喧嘩で2時間やるのすごい。ほんとにただ喧嘩しているだけなので、場所を替えたりやりかたを替えたり、手を変え品を変えしてくれるんだけど、屠殺所?みたいなところで折った鉛筆を相手の口のなかに入れて顔をぶん殴るシーンとか

「なんのためにそこまでやる?お前らはなんなのスパイなの?なにか重要な秘密を握ってるの?親でも殺されたの?」

と完全に置いてけぼりを食らうことになる。

補足すると、彼らは学校で対立していて、メンツのために戦っている。そこまでする必要、ある?ないよね?

あとみんなときどき広島弁を話す。最初誰かが話し出して「ああ、方言キャラかあ」と思ったらどうやらそうじゃない。みんなしゃべる。ほんとにときどき急にやって、急にまた元に戻る。これ、なんでか夫に聞いたら

「当時の不良はみんな『仁義なき戦い』に影響を受けているから」

というので笑ってしまった。

『仁義』の影響は凄まじく、割と大事なシーンで

「仁義の〇〇のシーンで誰々はなんて言ってた?」

「追われる者より、追う者のほうが強いんじゃ!」

って言って主人公の二人の男の子が元気を出すシーンがあったりする。仁義なき戦いってすごいなあ。話は変わって、私は数年前、不良文化どっぷりなひとびとと関わる機会があった。

あのひとたちって、なんかやけに芝居がかっているというか、間合いが独特なところがあって、それは各々の個性なんだろうと思っていたんだが、ビー・バップ・ハイスクールを観て合点がいった。あれは個性でなくて素養だったんだと。彼らはああいう間合いや芝居がかったコミュニケーションでシグナルを出し、仲間と心地よく群れているんだ。

多分彼らから見ると、私のリズムや間合いやことば選びのほうがおかしかったんだろう。

たぶんビー・バップ・ハイスクールでいうところの「シャバ僧(根性がなくて不良が続けられない腑抜け、みたいな意味があるらしいことば)」ってやつだと思われていたんだろうな。

だからビー・バップ・ハイスクールをもっと不良文化どっぷりなひとと関わっている間に観ておけば、またなにかちがった交流ができたかもしれない、と思った。

いやそんなことないわ。きっとあいつら馬鹿にするわ。ビー・バップ観たの?まあでもやっぱね、仁義観ないとね〜みたいな。そんで一生終わんねえんだこのマウントが。でもやっぱり観ておけばよかったなと思う。『あるある』が語れたら、しばし楽しいひとときを過ごせたかもしれない。

でもやっぱり無理だね。だってバカだなと思ったもん。

ただ喧嘩しているだけで話の中身が薄いので、いまの私にはありがかったし、いうて青春モノなのでさわやかで爽快感があって面白いけど、キャラクターにはまったく共感ができなかった。バカなことをやっていると思って観ていた。でも不良って自分で自分のこと「バカだよな、俺」とか言うよね?だからいいんだよね?バカだなって思いながらめっちゃ笑いましたでよかったんだよね、この映画って。

かつて、自分はグレなかったけど、不良のメンタルがわからないこともない、と思っている時期が私にはあった。けれど、不良文化にどっぷり浸かったひととまったくことばが通じなかったときに、どうやら勘違いだったと気づいた。

貧しいことと、育ちが悪いことと、不良なことは、みんな似ているようでちがう。あとバカなこともだ。

私は育ちが悪かっただけで不良ではなかった。不良の間合いやドラマ、文脈を理解する能力がまるでない。

じゃあなんなのかといえば、結局腐女子なんだよな。腐女子ってそういう男の絆を十把一絡げみーーーんなセクシュアルに解釈して吸収しBLに再構築して排出してしまうからな。たぶん、私もきっと腐女子にはなんらかのシグナルを出せるのだろう。

私と不良の会話は、さぞかしちぐはぐだったろうな、といま振り返って思うし、なんならいま第三者になって、そのちぐはぐっぷりを聞いてみたい気すらする。

ビー・バップ・ハイスクールに話を戻す。中山美穂がヒロイン的なかんじで出るんだけど、これがんまーかわいい。私は若いころの野性味のある、ちょっとキッとした中山美穂が大好きだ。芸能界で洗練された中山美穂よりぜんぜんいい。

で、この中山美穂演じるヒロインにしろ誰にしろ、ビー・バップ・ハイスクールにおいて、女はあくまできれいな添えものでしかないんだよな。きれいでなければ笑いもの。

私と不良の会話がまったく噛み合わないのも、私が男同士のやりとりを腐女子的にしか解釈できないのも、身も蓋もない言いかたをしてしまえば、結局は不良の世界では女が添え物で、人間と思ってないからなんだよな。不良でない男だって、男同士の世界には決して女を立ち入らせない。

不良に限らず、女が介在しない、できない、男同士の交わすなにかに対峙したとき、腐女子の私はBLの方程式しか持ってないから、それで処理するしかないところもあるんだと思う。

あとなんか、持て囃したくないんだよな。「男同士にしかわからない絆ですよね〜」とか言いたくない。高尚なやりとりだって持て囃したくない。だってくだらないって思うから。だったら「いやぜったいセックスしてるっしょ」って言いたい。なんか「どうせお前ら女にはわかんねーよ」みたいなかんじもムカつくし。

ちなみに、仲村トオルはめっちゃかっこよかった。背が高くて、シュッとしていた。中山美穂は、欲を言えば清楚なヒロインではなく、スケバンみたいなかんじのほうがよかったと思った。顔がキリッとしているので。

あんなこどもの喧嘩で映画一本どころか何本も作れるんだから、きっと監督にも不良のメンタルが宿っていたにちがいない。

私も腐女子のメンタルで、推しが男とセックスするだけの話で一本どころか何本も書きたいものだ。

 

 

腐女子のさだめ

アンドロイドテレビにアマゾンミュージックを入れてくれたことが、私の二次創作生活にとてつもない恵みをもたらしたことを、夫はたぶん知らない。

あなたも腐女子なら「この曲がイメソンに聴こえるとは、私の頭もだいぶ仕上がってきたな」という曲のひとつやふたつあるだろう。(神宮寺寂雷風)

私はやっぱり「ここでキスして。」とかそのあたりだろうか。女子高生が主人公のあの唄が三十代男性の心情に聴こえるなんて、これはもう最高にどうかしている。スマホで妄想を打つ手も捗るというものだ。このごろでいえば「幸福論」もすごかった。むちゃくちゃ推しだった。あんなに「幸福論」がしっくりくる男に腐女子人生で初めて出会った。

さも、たくさんあるお気に入りのうちのふたつがたまたま椎名林檎でした。みたいな体で曲名をあげたが、私の二次創作生活において、椎名林檎あるいは東京事変がもはや欠かせない相棒となっているのは目を背けられない事実だ。

イメソンっていいものだ。音楽は大体およそ5分以内に世界観や物語が凝縮されている。(それもこうして改めて書くととてつもなく偉大なことだ。)一曲、推しや推しカプに合うものを見つけて妄想をすれば、つぎその曲を聞くだけで、いちばん精度の高い妄想をなぞることができる。同じ曲をなんども聞けば、妄想をいちいちピークまで練らなくとも、精度の高い妄想だけに浸れてテンションを維持できるから、日をまたいで小説を書くときはとてつもなく助かる。イメソンは妄想のラベルであり、日常に忙殺される腐女子よすがである。寝付けない子どもにとんとんとんとんひげじいさんを30回くらい唄っていた私でも、椎名林檎の「旬」を耳にすれば、推しと推しの好きな男の恋愛世界にトリップできるというわけだ。ほんとうに夫には感謝しかない。アマゾンミュージックがなかったら、子育てに追われる私の二次創作はこれほど捗らなかったろう。

自分の小説を客観的に見ることはできないが、おそらく私の文章は「あ、こいつ椎名林檎好きだろうな」というのがありありと出ていると思う。いまでこそ、ひらがなを多めに書こうと心がけているが、昔はそれこそ仮名遣いも見るからに椎名林檎だった。「此れ」とか「其れ」とかそう云う奴だ。それは隠してないし、隠そうと思ってない。「椎名林檎好きでしょ」と言い当てられたら「はい、好きです」と言う。

でもよく考えてみると、小説の文章の構成に椎名林檎がにじみ出るって、すごいことではないだろうか。たぶん私の書いた小説に椎名林檎は見出だせても、私の好きな小説家はでてこないだろう。好きな小説家を語れるほどこのごろ本を読んでないが、3人あげろといわれれば、桐野夏生姫野カオルコ山田詠美あたりだろうか。5人あげろといわれたら、これに太宰治谷崎潤一郎を加える。自分で買ったわけではないが、こどものころ家にあったのを読んでいた時期があったから、花村萬月にはそれなりに親しみを感じてもいる。あれ?やっぱりにじみ出ているか?あとこれに源氏物語を混ぜたら、もう私の書く小説になるかもしれない。

このほど、私は推しの女体化小説を書き上げた。5万さんに「きっとヨエさんは推しの女体化を書くと思う」と言われていたし、自分でも「きっと私は推しの女体化を書くだろうな」と思ってはいたが、予想以上に手を出すのが早かった。

推しがもし女性だったらどうだったろう、と軽い気持ちで書き出したのに、終わったら14,000文字を越えていた。そしてものすごく後味の悪い話になった。

私は好きな男をすぐに女体化してしまうややこしい性癖の持ち主だ。しかも、これまで男の推しをわざわざ女体化して、いやな思いしかさせたことがないといっても過言ではない。

これっておかしいよなあ、と今回書き上げてから思い始めた。いや、わざわざ女にするなら幸せにしてやれよ、と。以前はこんなこと考えたこともなかった。ここまで感じるのはやはり推しが実在する人間だからだろうか。この話は、また今度きちんとしたい。

ひさしぶりにエロくない小説だったからか、筆が進みに進んで、なんだかスクロールするのが大変だなあと思っていたら14,000文字だった。どエロい小説だとこうはいかない。10,000文字を超えるまえにしんどくなってくる。

私にとって性描写は、頭も労力も使うものらしい。ずっと同じものの描写になるので、息抜きができないのかもしれない。

性描写のない小説だと「その日は雲ひとつない晴天で」とか、天気や空間の話をやりとりの途中に挟める、つまり視点を自由に変えられるわけだが、性描写中にそれをやると行為自体が終わってしまう。いや技術があれば挟めるのか。まあでも性描写は接写で書いておくのが無難ではないだろうか。AVも意味もなく引きの映像を入れるのは作者のひとりよがり、よほどうまくないとダサいと聞いたことがあるし。

だがこうして書いてみると、私はちょっと接写しすぎかもしれない。「どうせみんなそんなに関心ないでしょ」と踏んで、受けである推しのちんこをほとんど描写しないまま行為が展開するくらいだ。今度そこらへん意識して書いてみたい。

以前ブログで、過去に二次創作で文学(笑)や自己表現(笑)をしていたことがいまは恥ずかしいと書いたが、二次創作に限らず、あらゆる場面での自己表現をやめたらものすごく楽になった。

これはたぶん出産後の変化だろう。

なにか自分のなかで大きな意識改革があったとかではなく、単純に環境の変化と、ものすごく忙しくて『なにを選ぶのが私らしい』か『これを言ったらこう見られるだろう』とかを気にする余裕がなくなったのだ。

過去の私は、絶えずそう自問自答していた。

もののたとえでなく、朝起きてから夜寝るまでずっと、だ。選択の積み重ねが己を作ると信じていたし、どんな些細なことも『自分らしいか』『これで自分とはどういう人間かまわりに知らしめることができるだろうか』みたいなことばかり重要視していた。それこそ着るものから食べるものから言葉選びまで。『〇〇を選ぶ〇〇な自分』というラベルをありとあらゆる場面でずーっとつけて剥がしてつけて剥がしてを繰り返していた。『私はこういうひとです!』と常に自己開示と自己主張という形の自己表現をしていないと、自分というものが保てないと思っていた。ふっと息をついて自己発信をやめたその瞬間、誰かに己を剥奪されたり、うまくまるめこまれたり、いいように利用されると思っていた。この行為が、環境の変化などによって行えなくなると、私は完全に自分を見失って破綻するほどだった。

ひょっとしたら、なにかの病気だったかもしれない。

専業主婦のいまとちがい、社会に出て働いていて、職場で平均的なストレスにさらされ、決断を迫られ、自分自身でなにかを考えたりすることを求められる場面がいくらか多かったにしても、すこしおかしかったように思う。おそらく仕事が原因でもないだろう。私は母親から離れて子どもを産むまで、ずっとそういう人間だった。

折に触れて『私とはなにか』を主張し続ける人間は、はたから見ればさぞひとりよがりに見えることだろう。でも本人は必死なのだ。当時の私にとってひととのコミュニケーションというのは濁流のようなもので、私はこういう人間です!あれにはイエス!これにはノーです!と死にものぐるいで主張しないとその場に立っていることすらできなかった。

子どもと接していると、私が主張していた己とは一体誰で、なんだったのだろうかと思う。

子どもは、私がデブだろうが痩せていようが、肌がきれいだろうが汚かろうが、髪が短かろうが、長かろうが、ちびだろうがデカかろうが、一重だろうが二重だろうが、鼻が低かろうが高かろうが、声が低かろうが高かろうが、賢かろうが馬鹿だろうが、気が利かなかろうが、元気だろうが眠かろうが、毎日おなじように接してくる。変化があるとすれば子ども自体の機嫌であって、私を見る目は変わらない。なぜか。私がこの子の母親だからだ。ただそれだけのことだ。ただそれだけの、しかし永久不変の事実だ。

以前、推しのnoteで「未来の自分を読者に想定してこの日記をやっている」という文章を目にしたとき、私は最初自分の気持ちをうまくことばにすることができなかった。やっとたどたどしく表出したのは、推しがまぶしいということと、それからおどろくことに、すこしだけ妬ましいという気持ちがあった。なぜそう思うのか。またしばらくはわからなかった。

(以前読んだ10年ちかくまえの彼のブログを、私は『宛名のない手紙』と言ったが、あれはほかならぬ彼自身へ宛てた手紙だったのだ。)

「ああ、彼は過去を破壊しないで生きていて、これからもそう生きると決めて疑ったこともないのだ」

数日経ってそう気づいたとき、私は彼のその強さや屈託のなさ、健全さがうらやましく、そしてもっと好きになって、もっと遠くなった。

それと同時に、私という人間が「過去を否定し、破壊しなければ、未来を生きることはできない」と思い込んでいたことにも気づいた。

過去は過去。現在は現在。未来は未来。

けれども絶えず同じ方向に時間は流れていて、過去の行いがいまに影響を及ぼし、やがては未来になる。過去を破壊しなくとも、時間は進む。自分自身が誰で、なにものであるのか、どこかに主張などしなくとも、それはつねに人生に寄り添っている。いま目の前にひろがる世界こそが過去の行いの集大成であり、自分自身だと。自分自身なんて、ただそれだけのことだと。

そんな当たり前のことを、私はこどもを産むまで知らなかった。

私は自分が好きではなかったか、自分に過剰な期待をかけていた。この自分ではない、この自分でもない、といつもどの瞬間も、自分を否定し続けてて、どこかにある根を下ろして落ち着ける満足のいく自分をずっと探していた。だから新しい自分をいくつも作りあげては、外部に向かって発信し続けなければならなかった。でないと自分を保てなかったし、それを繰り返していけば、やがては納得のいく自分になれると思っていた。なれるわけないのに。なれるわけないから、最後には自分の手ですべてひっかきまわしてめちゃくちゃにしてしまう。

失敗した。やり直しだ。大丈夫、過去が間違っていると気づいた私には、未来がある、と。その繰り返しで生きてきたように思う。

私は推しのように昔のブログを残していない。みんな消してしまった。私には友だちが二人しかいない。みんな消してしまった。

自己開示、自己主張、自己表現。

どれも意思が強く自立していることばに思えるが、その実、他人がいなければ成りたたない、他者にとてつもなく依存している行為のことだ。

二次創作もそうだった。いつも自分の衝動を満たすためにはじめるのに、他者の関心や注目を得られたと気づくや、私は『理想の作家像』を作り上げ、それらしさを軸に活動してしまう。洗練されていたいおしゃれでいたい美しい文章を書きたい。虚栄心により衝動が濁って、最後には『理想の作家像』にしがみつくことに疲れて摩耗する。

私が人生をかけてやっていたことは『〇〇なひとに思われたい』『✕✕なとひとと思われたくない』という、ひとにどう見られるかどうかこだわっていただけだった。それだけがすべてだった。自分を保つための自己表現のはずだったのに、自己表現に終始してそこに自分はいなかった。

かつての私は『ひとに見られている部分』の自分にしか興味がなかったし、人間の本質というものはそれしかないと思っていた。瞬時に判断していち早く選び取る――いわばずっと早押しクイズをやっているみたいなかんじだ。人生がずっと早押しクイズというと、なかなか滑稽に聞こえるだろうけれど、実際は結構しんどい。慌ただしくて、虚しくて、なにも残らない。

ただ、とにかく早押ししないといけない、という気持ちが強いので、当意即妙というか、私はときどき瞬発的なセンスを発動することがあった。それはたぶんこういった、脊髄反射の生きかたをしていたからにほかならない。私を愛してくれたひとたちは、私の絶えず続く自己主張にうんざりせずに、きっとそういう「まぐれ」になにかを見出してくれたのだと思う。

けれどどうやら人間の生活は早押しクイズでないらしいと近ごろ思い始めてきた。早押しクイズがすべてではないらしい、というべきか。

選択肢にそのひとらしさが宿るのは、それはもちろんそうだろうが、選択肢を選び取ることそのものは本質ではないのだと、ほんとうに書いてても当たり前すぎることに、32歳にしてやっと気づいた。

私の選択は私の本質の氷山の一角にすぎない。私自身というのは私の過去・現在・未来の人生に寄り添っているだけで、確固たるものでもなく変質する。だれに訴えなくても自分は自分でいられる。だれにも脅かされない。そしてどんなに変質しても、こどもにとって母親であることに変わりはない。おそらくだが、夫と夫婦であることも変わりはない。私たちが家族であることを否定したり、破壊しなくても、きちんと未来はやってくる。

それがわかったいま、人生は穏やかで、推しはとっても素敵で、趣味が楽しい。

夫が私を支えてくれたから、子どものまなざしから私はそれを学び取ることができたのだ。そして、推しがそれを顕在化してくれた。ありがとう。私の家族。ありがとう。推し。

ながなが書いたが、自己表現から解放されたいま、二次創作がほんとうにめちゃくちゃ楽しい。なかなかトバしていると思う。

けれどこのまえどうしようもなく感想が欲しくなって、5万さんに

「マシュマロ(匿名メッセージを受け取れるメッセージボックスみたいなもの。誹謗中傷的な単語を自動でブロックしてくれるが、人間の悪意というものはプログラムを優に上回るので、やんわりとした言葉でいやなメッセージがくるときはくる)をつけたくて気が狂いそう〜!でもおそらくやってはいけないだろうなという気はしている〜!終わりの始まりだってわかっている〜!」

という相談をしたら

「ヨエさんの小説はジャンルのひとと関わるとつまらなくなる」

とものすごくはっきりと言われて大層笑った。あれはここ最近のなかでいちばんおもしろかったし、このひとは信頼に足る人物だと思った。ぜひとも天国に行ってほしい。

感想はほしい。それはやせ我慢できない。まだ誰も読まなくても書くという境地にはたどり着けない。

けれど、拍手やマシュマロなど、匿名で感想を送るツールは二次創作界隈にたくさんあるが、結局は名前をきちんと明記して発言に責任を持っている人物の感想のほうがよほど確かで、得るものが多く、なによりうれしい。それにもやっと気づいた。ありがとう、5万さん。

私はマシュマロの設置をやめた。

愛は忘却に宿る

住んでいるアパートの外装工事が始まった。これが予想以上に気が滅入って困っている。建物をまるごとシートに覆われた状態なのだが、家のなかにいると昼でも薄暗く、なんだか酸素も薄いように感じられ、夜には頭が痛くなる。たまらず深呼吸をしたくて外に出ることもあるくらいだ。洗濯物も干せないし、じわじわと神経をすり減らされている。推しの痴態でも書かないとやってられない毎日だ。(これは言い訳である。)

友だちの5万さんがついにブログを始めた。めでたい。

https://tengoku-match.hatenablog.com/

日々ラインでいろいろなことを話していても、ブログを読むのはやっぱり楽しいものだ。

5万さんは死後はなにがなんでも天国に行きたいらしいので、おもしろいブログを書いて、ぜひとも天国に行ってもらいたい。

私たち二人の間ではもっぱらトレンドの天国なのだが、ちなみに私はまったく行きたいと思っていない。私の勝手な見立てであるが、たぶん天国には砂糖もカフェインもアルコールもないし、おもしろい人間は大体地獄にいると思う。だから天国にはまったく惹かれない。

天国に行きたくない、というよりかは現世で天国に行けるような生きかたをしたくない。あるいは天国に行くことにしばられて生きたくない、と言ったほうが正しいかもしれない。好きなように生きて行けるのならまあ普通に行くだろうが。

ただこれが不思議なもので、天国に行きたいと思っている5万さんより、天国に行くつもりのない私のほうがよほど天国に行けるか行けないかのジャッジが厳しい。私の感覚としては、普通に生きてれば天国に行くのはまあまず無理だろうと思っているのだが、5万さんは多少の戒律なら破っても心意気さえめでたければ行けると信じている。

ちなみに天国に行ってなにがやりたいのか聞いたところ「特にない」とのことだった。行くこと自体がゴールなのだという。がんばれ。私も地獄でやりたいことは特にこれといってないが、まあたぶん推し活はすることだろう。あの鬼いいじゃんとか言っているんだろう。

先日、私の二人しかいない友だちのもうひとりである、ハイド崇拝者に、このブログを教えた。バレたとかではなく、普通に教えた。「子どもといるとどんどん言葉が出てこなくなるよね」という話がラインで出たので「私はまた性懲りもなくブログを始めました。社会で生きる大人と渡り合えるかはともかく、自分の内面を表す言葉はブログをやっていると出るよ」という流れだった。かなり無理矢理だったかもしれないが、ブログを書くこと自体はほんとうにおすすめしたい。対こども、対夫ではない自分を獲得できますよ、友人。

つまるところ、私はどこかで彼女にブログを読んでほしくてうずうずしていたのだろう。

高校生のころからの付き合いである彼女と「ママ友」的な会話をするのは楽しいし、味わい深いものがあるが、それしかできなくなるのはやはりさびしいものだ。このブログが私たちに「やまもなくおちもない、とりとめのない話題」を提供してくれれば、と思っている。

私のいきなりのカミングアウトに、彼女は「私が読むのをやめられないように(彼女は読書家だ)あなたは書くことをやめられないんだね。どうして教えてくれなかったの。読みます」と言ってくれたので、ラインにURLを貼ったわけだった。

教えたその日か翌日には、彼女からブログの感想が来た。察しがいいなあと感心したのはそのなかに

「あなたの間男の正体は見ないでおくわ」

とあったことだった。

彼女は私の推しを見たところで自分にはなにも響かないし、どうやら特筆するほどの容姿でないらしい、ということをブログを読んで理解したらしい。さすがだ。

推しはたしかにとてつもなく見た目がいいというわけではない。清潔感はあるが、ハイドと比べればただの人間の男に過ぎない。これはハイドが神だから仕方のないことだ。けれど賢く、非常に味わい深い人間だし、私は彼の容姿もいまとなっては好きだ。なぜか?推しだからだ。

かっこいいともかわいいとも思うし、性的にも見える。スタイルもそれなりでは?もうこうなりゃなんでも良いのだ。

このごろ彼を動画で観ていて思うのは「サイズの合う服を着てほしい」ということだ。推しはいつも体型に合ってない、おおきめのズボンを履いている。もっときちんとサイズの合った服を着れば、見違えるのになあ、とおせっかいなことを考えている。

推しは自分で言っていたが、似顔絵の似ない男らしい。すごく薄い顔に分類されるのかもしれない。実際昨日私も描いてみたのだが、まったく似ない。私は推しを描いていたのに、できあがったのは推しに似ても似つかない柳楽優弥だった。ちなみに柳楽優弥は好きだ。推しには似てないが。

恐ろしいことに、描いている途中は「なかなかうまくいっている」と思っていたのだ。なのにできあがったら柳楽優弥だった。信じられないことがあるものだ。

きっと私の推しの分析もそんなものなのだろう。このブログを読むひとは、そこのところをゆめゆめ忘れないでほしい。ものごとはすべて、逐一丁寧に描写したことがすなわち、正しく捉えたことにはならない。むしろ本質を見失うことのほうが多いかもしれない。このブログは、私の推しの情報を得るところではなく、私の推し活の混迷を味わうところである。

だが似顔絵を描くのはおもしろかった。推しの顔の各パーツをよく見て、思いを馳せる機会となった。似顔絵とは己の身のうちにある推しへの愛情を感じるのにうってつけの行為である。

推しの顔にはあまり男らしい印象はないが、実はなにげに眉毛が太いことが、似顔絵を描いてみて改めてわかった。無茶苦茶意思が強いのが滲み出ているのかなあ、なんて思うと微笑ましい。

あと推しは女装がめちゃくちゃうまい。ハイドの女装は神々しいが、推しの女装は「いそう!いるいる!こんなひと!」というリアリティがすごい。

きっと印象が薄いから「いそうなひと」に擬態するのがうまいのだと思う。

思えば私が昔いれあげた関西弁を操るテニス部の中学生も顔に印象のないやつだった。丸眼鏡と髪型と関西弁でかろうじてキャラを保っているような男だった。私は「簡単に像を結べない顔(ひと)」に心がざわつくようだ。

ひとに愛されるひとというのは、どこか一部だけ忘れられてしまうひとだと昔から思っているのだが、たぶん私は黄金比より少しだけたくさん忘れられてしまう人間が好きだ。

ぜんぶ忘れられたら記憶に残らない。ぜんぶ覚えられたら印象に残らない。少しだけ忘れられるひとが、忘れた部分を他者がそれぞれ好きなように補完し、各自で愛する。そして記憶に残り、印象にも残る。そうすれば誰にも忘れられない。でも誰も正しくは覚えていない。

忘れられる部分の理想がたとえば2割としたら、私はたぶん3割か4割くらい忘れられてしまうひとが好きだ。簡単に像を結べず難解ではらはらさせられ、一度考えると頭から離れない。なにより好きに埋められる部分がでかいのがいい。

なるほど、昨日はその余白を、白い紙の上で好きなように埋めたら柳楽優弥になってしまったわけだな。

ハイドを崇拝する友人はリア充なので、どうやら「推し」という概念がないようだ。うすうすそんな気はしていた。さきほども引用したが、彼女は私の推しを「あなたの間男」と呼ぶ。いい。これはいい。まったく悪い気がしないぞ。彼女にもきっと天国に行ってほしいものだ。彼女がそれを望むのなら、だが。

かくして、このブログは私の二人しかいない友人のどちらも知るところとなったというわけだった。(おしまい)

この上ない喜びと幸せを感じております

ずっと書いていた推しのどエロい小説をやっと仕上げることができた。上中下と3編に分かれた、トータル25,000字の大ボリュームだ。人間て、スマホでこんなに書けるものなんですね……としみじみしてしまう。

こんなに長いものをオンラインで書いたのは初めてかもしれない。いや、同人誌を作ったときだって、ここまで長いのはなかったのではないだろうか。

いつも、話を一本書くのに大体8,000字ほど使うのだが、そこが集中力の限界らしく、10,000文字ともなると、確認で読み返すだけでも大変になってくる。

どエロい内容だと、文章のほとんどが動作の描写になるので、頭のなかで人形を動かし、手足の動きはおかしくないか、そもそも手はきちんと二本か、三本になってたりしやしないかなど確かめる。結構めんどくさい。

数年前に「もう大人だし、ガッツリエロい小説書くか!」となってから、自分なりに試行錯誤して、どんどん御託や恥じらいなど、なんの役にも立たないものを削ぎ落とし、ヌケる文章を追求してきたつもりだが、技術を磨いて突き抜ければ突き抜けるほど、ひとに気軽に読んでもらえるものではなくなるこの皮肉。なぜだ。

いやなぜだってエロで、しかも今回は実在する人物を題材にしているしで、ハードルの天井が見えないほど高いからなのだが。

でもときどき本当にわからなくなるので困る。以前に書いたものよりはるかに成長したのに、どんどん気軽に読ませにくくなっている!もっと読んでもらいたい!と身勝手な駄々をこねたくなる。そんなことを言っても、結局そういうもんだから仕方ないのだが。

露出狂のやることに、がんばってペローンと出せば拍手喝采されるだとか、技術を磨けばおかわり!と言ってもらえるだとか、そんなバカなことはないように、何万文字書こうが、どれほどうまく書こうが、あれは私のオナニーでしかない。もっと言うと、すべての娯楽はどんなにがんばろうが、努力を評価されることなく無慈悲に消費されるし、努力が評価されるようになったら終わりだ。

大の立派な大人がバカなことを一生懸命、真剣にやってあえて笑い者になっているのに対して、私はうっかり胸を打たれてしまうことがある。だが、実はそれがいちばんむごいやり方で、本来「うわーーこいつばかだなーー!」と笑い飛ばしてあっさり忘れるのが正しいのだ。

でも推しがバカなことをやると、もしくはやっていたのを見ると、そういういちばん間違ったやり方で消化してしまう。笑いを取ろうとしたひとに対して「がんばっているよね」と言うのはあまりにも残酷なことはよくよくわかっているのだが、こればっかりは無理だ。

推し活をするものにとって、推しの一挙手一投足はすべて示唆と啓示なのだ。深読上等。深読みして深読みして裏の表は表の裏で真実はどこにもなくて、正解のない日々に身悶えて、今日も推しは生きている。推し活はひとことで言うなら「混迷」である。

私の小説の話に戻す。前前ジャンル(ぜんぜんぜんぜんせみたいだ)まではハイドを崇拝する友だちにも作品を読んでもらっていた。ときどき感想をもらったりして、リア充で聡明な彼女ならではのハッとする考察に、私自身刺激を受けていたものだった。腐女子は結構みんな腐女子あるあるで物語を書いているな、と彼女と話して気づいたことはいくつもあって、実りある時間だった。だが彼女は腐女子ではないので、ジャンル替えとエロ解禁にともない、その習慣はなくなった。

エロを書くまえはなにを書いていたのかというと、なかなか叙情的なものを書いていた。そのころはそれがかっこいいと思っていたのだが、いまはそれがひたすらひたすら恥ずかしい。ごちゃごちゃ言う暇あるなら推しにちんこの一本でも入れろ!と思ってしまう。昔の私よ。おとなはいつも時間に追われていて、余裕がなくさびしい生き物だ。だから時間ができたらスマホで小説を書くし、すぐ推しにちんこを入れてしまう。淫語を喘がせてしまう。

もしも、あの25,000字のエロ小説を彼女が読んだらなんというのか聞いてみたいものだ。だが、たぶんほとんどがハートマークだらけの内容にドン引きするか呆れるか辟易するか私を見損なうかのどれかか、もしくはいまあげたもの全部なだけだと思う。

そういえば、その小説を書いている途中に、ピクトブランドのなかでコメントをもらった。コメントをもらったこと自体がとてもうれしかったし、その内容もきちんと小説を読んでくれていると感じて胸が温かくなったが、まず真っ先に思い浮かんだのが「ピクトブランドほんとにひといたんだ」だった。あんまりにも人間の気配がしないので、私と5万さん以外全員サクラだと思っていた。ちゃんと人間がいたらしくてよかった。ちゃんと人間がいたとして、私の小説が受けいられるのかはわからないが。

そしていま5万さんが出てきたが、私が最初に小説を書き始めたジャンルから、いまに至るまで途切れつつもずっと読んでくれている、たったひとりのひとだ。これはほんとうにすごいことだ。ジャンルの切れ目は縁の切れ目、という言葉があるなか、私たちはかなりいい関係を築いたと思う。私たちのジャンルが被ったのは最初のひとつだけ、というのもまたすごい。

これはまた改めて書きたいが、5万さんがある俳優にハマらなかったら、私も推しと出会うことはなかっただろう。遭遇することはあっても。

推し活において、出会いと遭遇はちがう。一般的な人間関係が相互交流に対して、推し活は一方通行だ。ただの遭遇に、こちらが想像力と感受性を働かせ、どれほど意味を持たせることができるのか。推しとの出会いはそれにかかっている。

実際、私は推しにハマるまえ、推しに遭遇したことは何度もあった。でもあのころはまだ彼に出会えていなかった。5万さんが推しに出会い、私が彼に出会い、そして25,000字のエロ小説が産声をあげたのである。笑える。

オナニーというのは重々承知のうえで、やっぱり私は、小説を誰かに読んでほしいと思っている。好意的に受け止められたいし、感想にも、いつだって飢えている。5万さんから感想をもらうと蒸発しそうなほどうれしいし、そこで初めて「書いてよかった」と思う。自分の読みたい物語を、書きたいように書いて、できあがったとき、今度はそれが客観的に成立しているのかも気になる。そしてそれは自分には絶対に確認できない。

感想をもらうためだけに書くようになったらよくないと思うが、やっぱり感想はとてもうれしいものだ。

誰にも見せないものをコツコツ書く、とかそういうことは私には絶対にできない。

なにかを書くことはものすごく孤独な作業なのに、使っているのが情報伝達ツールである「文字」というのは、すごく書いている側の人間の本性を示しているみたいで好きだなと思う。

タイトルは、いま話題のビッグカップルの入籍報告から。「この上ない幸せ」ってすごくいいなと思ったので、5万さんと一緒にラインで一文を真似をしてみた。

「○○(推しの名前)さんと夫婦になり、この上ない喜びと幸せを感じております」

ちょっと幸せになれます。ほんとうです。

乳首と文学

推しのどエロい小説をずっと書いていた。ほんとうにずっと書いていた。ずっとずっとずーっと書いていた。イカれている。

私はいつも推しが受になるタイプだ。最近話した同人友だちは「推しキャラは攻になることが多いかな?ちょっと夢が入っているから」と言っていて、私は「ゴリゴリに夢が入っていようと、私の場合、推しはいつも受だわ……なんなら最初攻から入っても受を書いたり見たりしてしまう……」とちがいを感じたものだ。

性癖やエロはみんな誰しも自分が正解なので、字数と時間を割き、自分なりの根拠を並べて主張しようが、相容れない人間には単なるこじつけや自己投影といわれてしまう。

それは重々承知のうえで、にしたって推しはド受けだ。

毎日毎日育児の合間にエロ小説をコツコツ書き進めては「これはやりすぎかもしれない。いくらなんでも推しはこんなに淫乱ではなかったかもしれない。ちょっといきすぎだ」と思い直して、動画や昔の発言を振り返るともうバリバリのド受で困る。

そんなにド受でなくてもいいのにってくらいド受だ。いや嘘だ。いいのにとは思わない。困ってもいない。こんなにド受でエロいオーラがむんむんで感謝している。

エロ小説を執筆している以外の時間は家事をして育児をして、5万さんにラインで妄想を垂れ流し、あとはピクトブランドが使いにくいとキレていた。ピクトブランドの使いにくさといったらほんとうに尋常じゃない。いろいろ検討して現状使うしかないから使っているが、いまだに全貌をよく把握していない。ログインしても秘匿性が高すぎて、視界に広がる世界はまだら模様なのだ。

商品の置いてないがらんどうの棚に、商品情報の書かれた札だけが置いてある、どこまでも続くひとの気配のない大型デパートの棚。ピクトブランドってそんなかんじだ。

三次元の推しのエロ小説を書くのはおそらくこれがはじめてなのだが、ナマモノ界隈が面倒なことは置いといて、私は対象が二次元より三次元のほうが書きやすいのかもしれない。対象が架空のキャラクターだと、あまりしつこく描写するのもな、と遠慮してしまうが、おなじ人間だと思うと描写の手を緩めずにのびのびできるみたいだ。

というのも、5万さんに小説を読んでもらったところ「推しの乳首の描写がよかった!」と言ってもらえて読み返したら、一言でいうなら「妄執」というかんじの出来栄えで、たしかにあの描写は並々ならぬ書き込みだった。非実在青少年にあそこまでできない。

でもそういえばこの記事を書いていて思い出したが、昔好きなバンドメンバーのエロ漫画を描くとき「実在する人間だから、身体とかちゃんと描かないと説得力がないよな」と律儀にいろいろ画像検索して、無駄に男性器のアップのコマとか入れていたので、私はそういうところ融通のきかない人間なのかもしれない。漫画は結局完成しなかった。昔の私はいま以上に根気がなかった。

いまの私はちがう。スマホでエロ小説を何千字も書く有様だ。

独身でこどももおらず、果てしない時間があったころ、既婚者で子持ちの同人友だちが「小説はスキマ時間にスマホで書いてるよ」と言っているのを聞いて「えー!書きにくくない?私パソコンじゃないとむり〜!」って言ったことに、いまさら自分ですこし傷ついている。あのひとに謝りたい。

こどもが生まれてみてわかったが、パソコンを開く心の余裕がない。パソコンを開くだけならできるかもしれないが、使い終わったあとにこどもの触らないところにしまわないとならないことを思うと、ならスマホでいい。あとタイピングの音はけっこううるさい。こどもとおなじ部屋でパチパチしたらドキドキするくらいには響く。

でもスマホで長文を打っていると「これが消えたらどうしよう」という恐怖に駆られる。6000字〜8000字くらいでそのピークが来て、だから途中でアップしてしまう。データがあまりにも儚いことに変わりはなくとも、とりあえずアップすれば落ち着くのだ。

だからピクトブランドのひとたちには「このひとちんこも入れてないのに無駄に長い小説を小分けにしてあげて……。乳首の描写なんていいからとっとと挿入するか、挿入してからあげろよ」と思われているかもしれない。そもそもひとがいたら、の話だが。

いろいろピクトブランドのことを言ったが、私はべつに「ナマモノもっとオープンでいいじゃん!」とかいう危険思想はこれっぽっちも持ってない。推しにだれかのちんこを入れてアンアン言わせて「こいつえっろいなあ〜」ってニタニタする趣味なんて、隠れてやるべきに決まっている。でもそれとこれとは別にピクトブランドは使いにくい。それは絶対的な事実だ。

ナマモノに限らず、二次創作の立ち位置もここ何年かでだいぶメジャーにキャッチーになったが「恥ずべきもの」だというのは念頭に置いて忘れてはいけない。そういう「やっちゃいけないことをやっている」というのも魅力のひとつではないかとも思うし。

と、大きな主語で一般論っぽく語ってみたが、これは最近私が自分によく言い聞かせている、というか思い知っていることだ。二次創作は隠れるべき趣味で、その二次創作界隈のなかでも、私はかなり恥ずべき立場の人間だと。

昔はキャラクターが変わっても支障がないような、量産型のキャッキャウフフの二次創作作品を見て「内容薄っ。私はもっとおもしろいのを書きたい!」と思っていたが、最近そういう量産型タイプのほうがよほど健全だと考えを改めた。これは夢作品についても同様だ。

所詮はオナニーにすぎない二次創作で、他人のふんどしで相撲を取って、火のないところに煙を立てるに飽き足らず、あれこれ能書きならべたり、こねくりまわして小難しいことを述べて自己表現(笑)や文学(笑)しようとしているやつ(私のことだ)のほうが量産型よりずっと恥ずかしい存在だ。

キャラクターとキャラクターの気持ちが通じ合ったり、寄り添ったり、触れ合ったり、心と心が接触したときが二次創作や夢作品のクライマックスだとしたら、それはもう量産型がいちばん手っ取り早く効率良く「萌え〜!」とできるわけで、だてに量産型化・王道化していない。

私だって、もっと明るい人間なら二次創作はともかく夢小説くらい「智のこと、せかいでいちばん大好き♡♡♡」とかそういう内容のないうっすい小説を書いて健全にきゃーきゃー言ったり顔を赤らめたりしてみたかった。だが、こっちも他人のふんどしで文学(笑)や自己表現(笑)をするために捧げた年月がでかすぎて、こじらせたりこねくりまわしたり小難しい能書きを垂れないとオナニーできなくなってしまったのだ。そしてやっかいなことにへんなプライドもある。だからほんとうに手に負えない、恥ずかしいと思っている。ほんとうにほんとうに自分は恥ずべき人間だ消えたほうがいいと思いながら、私は今日も「私、智のことだあい好きだよ♡」とか言う小説は書けず、妄執に捕らわれて推しの乳首の描写に文字数を割いている。推しよ、今日もド受けでありがとう。

 

魂を売って妄想を買う

遅れていた生理がやっと来た。私は昔から推しを作るとすぐにホルモンバランスを崩す。きっと身体が恋愛モードに入って、なにかを期待しているのだろう。だから私の生理が遅れたのは推しの彼のせいだ。あと痩せる。これは趣味に没頭してもそうだ。楽しいことにのめり込むと、あっという間に文字通り寝食を忘れてしまう。裏を返せば、普段どれだけ食べることをよりどころにしているかということだ。

さて、先日推しのnoteを買った。一ヶ月300円のマガジンと100円の過去記事を一本買った。

つい前回の記事でnoteを警戒しているので手が出せない、と書いたその舌の根の乾かぬうちにだ。私は自分のポリシーを捨てて悪魔に魂を売った。

けれどこのごろ、自分が信じることや譲れないことなんて、必死に握りしめ、しがみつきするものではなく、こんな風に瓦解されるためにあるのかも、なんて思う。こだわりや決めつけ、思いこみを手放すたびに、私の人生は楽になり、自分というものにしがみついているときより、私は自分自身になった。長年頑なに握りしめていた拳をパッと広げてみれば、手のなかにあったこだわりは意外としょぼくれていて「どうしてこんなものを持っていたのかしら」「一生譲れないと思っていたけど、よく考えたらこのこだわりは環境が変わったいま意味がないわ」とか、そういうことってよくあることではないだろうか。

いろいろと書いたが、結局は推しの過去に書いたブログをぜんぶ読んでしまって、推しのなにかを!摂取したい!せねば!となったのだ。端から端まで、ネットの海に沈んでいたものはもうぜんぶ読んでしまった。つもりだ。むしろ、もしまだどこかに推しが過去に書いたものがあるのなら教えてほしい。すぐに読みに行くから。

推しを好きになって間もないころ、有料noteで日記を書いていると聞いたときは(意識高いな〜)とあまりピンと来なかった。というかちょっと感じが悪いな、くらいに思ったし、無料公開されている記事も、とりたてて言いたいことや結論の見えない文章で、なんだか頭に入らず、お金を払って読みたいと思わなかった。

しかしそこからすこし時が経ち(ほんとうにわずか1、2週間程度で)推しの過去のブログを読んでから、もう一度無料公開記事を読んでみたら、以前と見えかたがまったく変わっていたのだ。

これは、まず私が推しの文章に慣れたのだろう。

推しは自分でも書いていたが、文章を読んで『これが言いたかったのか』と明らかにされるのが好きじゃないのだという。(でも言いたいことはなにかしらあって、それはちゃんと書いているらしい。なおさらよくわからない)私からすると、ならなんで書いているの?伝えたいことがあるから書くのではないの?と思うのだが、彼はそうではないらしい。

推しは私がたぶんこれまでに関わったことのない人種で、知れば知るほどわからないし、像をつなげられないひとだ。(そしてたぶん像をつなげられたくなくて撹乱させている。賢く根深くシャイなひとらしい)だが、彼は文章を書き続けたい、書くことをやめられないひとだという、自分の分析にはかなり自信がある。

推しの昔のブログを読むと「一週間で誰もアクセスしていない」と言いながら、かなりの文字数の記事をあげている。それも何日も。すごくしょうもない内容で。リアルな日記じゃなく、あんな軽い内容でそれなりの量の文章を、きちんと組み立てて書くのはなかなかすごいし、ある種狂気だと思う。

敬遠していたnoteの購読を始めたのは、あの青臭いブログと意識の高い有料日記は地続きなのだと思い至ったから、というのも大きい。どうしても書き続けていたい、という推しの業というか癖というかを追いたくなったのだ。

有料なのもきっと、推しも男子大学生のころとはちがって大人になったし、立場もあるから『お金を払ってまで見てくれてるひとがいるんだから』という時間を割く大義名分がほしいのかもしれない、と大変好意的に受け止めることにした。だって彼は私の推しだからだ。推し活は盲目的であるべきだ。そのほうが自分も楽だ。

そうそう。霞がかった推しの文章の話だった。以前は上滑りしてちっとも私の心と頭に響かなかった推しの文章が、過去のブログや盲目的な愛情の末、このごろきちんと頭に入るようになった。でなければやっぱり課金の壁は越えられない。推しが隠しつつも書いている、言いたいことも受け取れている気がする。

しっぽを出さない推しの文章を読むことのなにがいいかって、推しが意識せずにぽろっとこぼす本音があるということだ。

嘘も、有耶無耶も、ごまかしも、詭弁も。ひとりの人間の頭からつむぎ出されている以上、感覚や本音、本人の根底にあるエッセンスに由来する。そしてそれをまったく抹消することはできない。隠してもときたま垣間見えてしまったそういう欠片が、推しの文章を読んでいてこのごろ見えるようになった。その小さな欠片を大事に大事に拾い集めながら、推しの文章を読むのが楽しい。

のどかな河原に私と推しが二人きりで、彼は穏やかな川の流れをなにをするでもなく見ていて、私はその背中を眺めながらきれいな小石を探している。背中に当たる春の日差しが気持ちよくて。ああ幸せだな〜。そんな絵が頭に浮かぶ。

思わず妄想の世界に旅立ってしまったが、文章のなかに恥じらいがあるなんて、私の推しってすごくセクシーな人間ではないだろうか。

noteの日記でいちばんテンションがあがったのは、推しが仕事部屋を借りたことだ。

仕事部屋!

なんと甘美な響き。

夢女の私も、腐女子の私も、その単語と写真に大いに沸いた。仕事用の部屋なんて、最高の舞台装置ではないか。その事実は、私の妄想の展開を幾重にも広げてくれた。それだけでも300円の価値は充分にあった。ありがとう推し。

ちなみに私が「悪魔に魂を売った」と思った瞬間はnoteの会員登録が済んだときではない。あのときの私はまだ心まで屈していなかった。

そのすぐあと、推しのnoteを購入した際に、彼のアイコンにフキダシで「最高〜〜〜〜!!!!!」と話しかけられたときだ。

スクショ撮った。